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うそつきとどろぼう

​「そんなに暗いところで本を読んでたら、目を悪くしますよ」

ざあざあとうるさい雨が、窓の向こうで鳴っていた。書斎の床材、リノリウムは氷のようにひやりとしていて、革靴を履いている足にも堪える。しまった、紅花に厚手の靴下を履かせておくべきだった、と気がついたが既に遅い。気が利かないと言われたことは、これまでの人生で沢山あったけれど、それをこんなにまで気に病むことは、はじめてだった。

「だいじょうぶ、これ以上目が悪くなるわけがないわ」

見えないもの、と言う声が、雨の騒音をくぐり抜けて耳に届いた。失言だった、と下唇を噛むと、やさしい紅花は気にしないでと朗らかに言う。

「冗談だったの、嫌味でも、皮肉でもないわ」
「すみませんでした」
「気にしないでったら」

薄暗い書斎で、紅花の指が本の上の点字を滑るのがはっきりと見えた。窓から、雨のカーテンを抜けて差し込む月の光が、白い紅花の肌を照らしていた。
紅花は、目が見える俺よりもずっと賢くて聡明だ。きらきらとひかる瞳が、紅花の脳には情報をなにも与えていないなんて、信じがたい事だ。紅花はいつだって、俺のすべてを見透かしているように思えるのに。

「小春」
「なんですか」
「もしもの話を、してもいい?」
「はい、どうぞ」
「もしも、よ」

ちいさな彼女は、すううと息を吸って、ためて、言った。

「わたし、実は目が見えているの、って言ったら、小春はどうする?」
「……それは、もちろん、」

喜ばしい事だ。
そう言おうとしたのに、喉がつかえて続きが言えない。目の前の少女の視力が、たとえば、自分と同じくらいだったなら。きっとすべて、変わってしまう。俺はいつだって、静かに、そう信じていた。

(俺がここにいなきゃならない理由が、消えてしまったら。俺がここにいてはならないと、彼女が知ってしまう時が来たら……)

俺は、真っ白で糊のついたワイシャツが似合う人間じゃあないし、ぴかぴかに磨かれた革靴だってどこか滑稽だ。それでも俺は、彼女の側にいられる理由があったから、この格好だって幸せに思えていたのに。
彼女は賢いおんなのこだ。きっと目が見えなくとも、俺のことなんかすべて見透かしている。それでも、俺は彼女の聡明さに気が付かないふりが出来る。そう甘えていたのだ、情けないことに。
これがもしもの話でよかったと心底安堵している自分の愚かさも、きっと彼女には筒抜けなのだ。

「わたし、もしも目が見えるようになったら、はじめにあなたを見たい……。ねぇ、いいかな、きっとそのときまでは……」

(そのときまでは、側にいるよ。きっと、きっとね……)
(もしもにもしもを重ねた仮定の話に、薄ぼんやりとした希望を重ねて、俺は、君は……)

いつだって側にいたいのに、そう口に出すのはあまりにも虚しく感じるのは、俺も彼女も同じなんだろう。相手の言葉に透けてみえるそれは、だれにも触れられることがない。

「もう部屋に戻りましょう、ここは酷く寒い」
「そうね」
「手を」
「うん、ありがとう」

少しでも力を加えたら、ばらばらになってしまいそうな彼女のてのひらは、どこかにに置き去りにされていたように冷たい。彼女のベットに辿り着くまでの間、聞こえるのは履き慣れない革靴の音と、雨音にかき消されそうなくらいやさしいおんなのこの靴音だけだった。

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