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酸欠

いき絶えるときは、あのこの柔らかい腕のなかがいい。それがきわに見ることのできるまぼろしだとしてもかまわなくて、脳細胞に及ぼされるきまぐれをまぶたの暗幕に映すことで、きっとしあわせだったことすべてがしあわせなままに終われる。それが悪魔へのちかみちだとこころの中ではわかっていたけれど、新鮮な空気こそ猛毒のように感じられて、俺はいきつぎの仕方を忘れた愚者のふりをした。顔をあげたくはなかった、このままじべたをじいと見つめて、とりのこされたあのこの切れ端を繋ぎあわせようとしていることが、楽なのだ。まばたき後の世界に、あのこは存在しないのだから。
月並みではあるが、結局、俺はひとりぼっちに戻りたくないだけなのかもしれない。一人で行う呼吸のさむさを知っている、俺が一日をすごす墓地などはいつだってひどくひやりとしていて、あちこちでいきをひそめた亡者が横たわるからだを狙っている。俺はその手をひとつひとつぴしゃりとはたいて回らなければならないから、しかばねの吐息を吸って、吐いて、死とおそろいに呼吸をしているのだろうな。あのこのそれとはとても似つかぬ、肌にふれるとじとりとはりつく掘りだした土の湿度。教会のはりつめた空気を震わせる声とは、違う。

(くぐもった声はどこへもゆけない)

さよならくらい、きれいな声で言えたらいいのにと思うけれど、きたない喉のせいにして悼辞を先のばしにしようとしているのはおのれだ。ほそくながい息をはいて、おんなのこのまぼろしをつまさきにみている、しかしまぶたは決して開かれない。それを望むものはもはや俺のどこにも存在していないだろう、使い古しのインバネスの下でどろ色に汚れた肺がひゅうひゅうと、酸素を欲して死んでいた。言葉もない。

(はいつくばる声はどこへもゆけない……)

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