top of page

book

小さなシャロンお嬢さんの日課は、一冊の本を持って森のなかに駈けてゆくことでした。森の奥は黒々とした闇があって、シャロンはその縁から中をそっとのぞきこむのがすきでしたし、お父さんが死んでからずっとおばあさんの家に預けられていたシャロンは、いつだって外にいきたくてたまらなかったのです。

(おばあちゃんは嫌いじゃあないのだけれど、どうしても窮屈だわ……)

木陰に腰をおろして、おばあさんの家の本棚から引き抜いてきた古い絵本を読むのがシャロンのすきなことでした。シャロンにはお母さんがいませんでしたから、ずっと、お父さんの帰りを本と一緒に待っていましたし、それはお父さんがいなくなってからも変わることはありません。
シャロンはおやつのリンゴを、本に汁がかからないように気をつけながらかじることも、本を読むことと同じくらいにだいすきでした。その日だっていつものように、朝露を被った芝生の上にそっとハンカチーフをおいて、そこに座って本を読んでいたのです。
ですが、いつもとは違ってシャロンを邪魔するものがいました。シャロンの真っ黒なワンピースを引っ張る嘴は、ワンピースと同じくらいに黒く、シャロンはまるでわたしにそっくりだと思いました。

「リンゴを食べる?カラスさん」

シャロンがそう言うのを待っていたように、その黒い鳥はリンゴをそっとつついて、森の奥へと飛んで行きました。


明くる日も、明くる日も、真っ黒な羽毛のいきものは同じようにリンゴをかじってゆきました。シャロンは、じっとそれを見ていました。カラスのようだったいきものが、人のような手足を持ってゆくのも、じっと見ていました。
ある日、大きな手のひらを持ったそれに、シャロンは言いました。

「あなたには名前が必要よ。お友だちになるのなら、名前を呼びたいし。そうね、ニクスにしましょ?だってわたしとそっくりな色をしているもの」

ニクスは、一度だけ小さく頷いて、シャロンの頬にその大きな爪で触れました。少しだけ皮膚を撫でて、ニクスはシャロンを確かめていました。もう今は、ワンピースを引くのは嘴じゃあないね……とシャロンは笑うのでした。

「ニクスはお洋服を着たほうがいいね。いつかきっと、この羽もすっかり落ちてしまうような気がするんだ……本当に、そうなったら、服を着なきゃあ駄目なんだよ。そうだ、わたしのお父さんの着ていた背広を持ってきてあげる。きっと、ぴったりだよ」

おばあさんの家に帰ったシャロンは、シャロンの身の丈にはあまりにも不釣り合いな大きな鞄の底からお父さんの背広を見つけ出しました。シャロンはそれを見つめるだけで、お父さんのことを思い出して、目の奥からじわりじわりと熱が出てきたような気持ちになるのでした。
その背広は、ニクスにちょうど合いました。ニクスの羽はシャロンが言っていたように、日毎になくなっていくようでした。ニクスの体に肌の色が見えてきた頃には、シャロンはすっかりおばあさんの家にも慣れていましたが、シャロンはニクスに会いに森へ行くのをやめませんでした。

「シャロン」
「なあに」
「眠いの?」
「うん、なんだか、とても」

あれからニクスは、シャロンのお陰で言葉をたくさん覚えました。しあわせな気持ちも、うれしい気持ちも、ふしぎな気持ちも、何もかも表せるようになったように思えました。

「眠ったら、だめだよ」
「ちょっとだけ」
「だめだ」
「ニクスのけち」

シャロンは、ニクスと出会ってからすっかりかなしい気持ちを忘れることができました。真っ暗な夜も、涙を忘れて眠ることができました。

「僕が、シャロンを食べてしまうかも知れないよ」
「ばかね、もうあなた、指の先までわたしたちと同じだわ。ピアスみたいに一枚、耳たぶのところの羽が落ちるのを渋っているだけだわ」
「シャロン」
「なあに」

シャロンがニクスにもたれかかって、音もなく目蓋を閉じたとき、ニクスは初めて泣きました。シャロンのかなしみはすべて、ニクスが食べてあげていたのです。林檎を啄むように、少しずつ、少しずつ。
ニクスは夜の夢でした。シャロンの見た、かなしい夢でした。ニクスはシャロンの気持ちをちょっとずつ頂いて、代わりに、あたたかい夢をあげました。

(本当は途中で気付いていたんだよ……あたたかい夢は、心地がよいから、きっと君は帰ってこなくなっちゃうんだってこと……)

それでも、ニクスはひっそりとした森の奥で、ずっとまっているのです。真っ黒なカラスのような服のその少女が夢から覚めて、おはようを言ってくれるのを。

bottom of page